なんとなく今だから書きたいことをただ徒然なく書いてみる。
最近のぼくのまわりに起きていることははっきり言って困ることばかりだ。
会社では僕の後継者として育ててきた子が引き抜かれてほかのプロジェクトへ行き、僕の弟は様々の要因で身体と心を壊して少々いかれ気味だ。挙げ句の果てに家族は全員風邪にやられてぼろぼろで次男は重症肺炎で入院している。
長男は難を逃れたが、今もむせて咳き込み僕を床から呼んでいる。
これが現実だ。
おまけに、僕の好きなアーティストは解散するジンクスは破られず、愛するsurfaceまで解散となった。
最後のアルバムとなったLast Attractionは是非聞いて欲しい。
本当のラストに入っている新曲、CHANGEには今の僕の会社での想いと合致するもので本当に泣けてくる。
今までもSURFACEに助けられた時期はあった。
あえて大文字にしたのは時代を意味している。
「らしさ らしく」という曲は僕の就活時代を救った。
「君の声で 君のすべてで...」という曲はある意味僕の学生時代の恋愛を物語った。
そして何より、僕が音楽を愛する中でたくさんの人と巡り会った。
その中で一番なのは「縁」だ。
何が大切か、何をするべきかなんて分析してもしょうがない。
今僕には大切で愛すべき家族と仲間がいる。
それはつきあいのレベルとか、そんなものはそれぞれ様々だ。
だが、はっきり言って問題ではない。
辛いのは僕だけではない。
妻は病床の次男に付き添って病院に泊まり込んでいる。
はっきり言って体調も本調子でない今、苦痛でしかないだろう。
それもわかっている。
僕らは親の過剰な援助のみならず、最低限の協力も得ない生活を手に入れようとして、そして今回もまた失敗している。
結局人は一人では生きていけないということだ。
泣きつくことができるのは幸せなことだが、自分たちでやり遂げられない、乗り越えられない壁というのはとても大きく自分たちにのしかかってくる。
それはたぶん僕が「親」として感じるものを僕らの「親」という存在もやはり今でも同じように感じているからの助けなのだろう。
そう、いつまでたっても僕らは「子ども」でしかないのだ。
あがいてぬけだすのは間違っているのかもしれない。
相容れるところを見つけるのではなく、それこそがそもそも「縁」なのだろう。
成果主義が批判される側面もあるが、結局のところ答えは一つ。
『ネバギバップなんてちょっと 勢い増していこうよ
ここからじゃん そうこれからじゃん 終わりじゃないんだよ
@言う間の人生です 存分に足掻きましょう
「結果が全て」だとしたらさ
言い返すより結果を出せ!』
そういうことだ。
結果を出せ!
出せない奴がごたごた抜かすのが間違いなのだ。
はっきり言って現実は厳しいね。
満身創痍でも立ち向かわなければいけないのが人生。
祈るのは世界平和。
あくまで広義の意味で。
狭義で今の最善は子ども達の健康と安心。
もうそれ以外に言うことはないだろう。
実は今日のお風呂で長男との二人生活二日目にして泣いて訴えたことがある。
「みんなでいろんなことしたいんだよ、家族四人で」
すごくよくわかっている。
そこに妻が「今日もパパと二人でお風呂に入ってゆっくり寝てね」という追い打ちをかけてしまったことが一つの原因でもあることも。
木曜は幼稚園に行ったけど、GWをはさんだこともあり、まともに2週間幼稚園にはいっていない。
本人もいろいろと自分の中で不安とか抱えていることだろう。
病院に行っても、小児病棟は家族でも子どもは入れない。
免疫の面で感染する二次災害を避けるためだ。
合理的だが、このために弟と会うこともできないまま毎日病院まで通わされている。
かなりヘビーな仕打ちだと思う。
それでもけなげに強気に「パパの料理はおいしい」とかいろいろ気を遣ってくれるあたり、感謝してもしきれないほどだ。
まさしく人生は「行」だと思う。
今まさに我が家最大の修行の時期なのだろう。
日曜の夜からは僕が泊まり込みの番だ。
それもまた「行」だと思う。
はっきり言って朝五時過ぎまで次男を看て、そのまま出勤し、一度帰宅してシャワーを浴びたらまた病院なんてのは誰も望む世界ではない。
でも、それも現実だ。
エゴかもしれないが、君たちのために僕らはいるし、そうでありたい。
少なくとも今回の「行」については終わりは来週のどこかにはあるだろう。
それは一つの安堵であり、一つの逃避だ。
それも含めてわかっている。
生きるのは辛いな。
この時間にこんなことを書いていることも辛いな。
でも、泣き言を言っている暇はない。
『結果を出せ!』
わかっている。
もう少しだけ、僕に、僕たちに力を。
弥栄